
ある日、ヤフーJapan記事の見出しに目が止まった。
日常でふと「私ってマイノリティ(少数派)だなぁ」と思うこと、でも実は多数派だった!?
というもので、以下は内容の1部。
「自分の意見や本音を言わない会話が苦手です。お世辞とか、遠まわしの言い方とか、考えすぎて疲れるし、“察する”のが苦手で。噂話をされても興味ないし。大人になるとそういう付き合いが増えて、最近は人と会っても内心退屈です」
「待ち合わせて目的地へ出かけるのが苦手です。ランチも学校行事も現地集合がいい。時間を気にせず、自転車でさーっと行きたいんです。現地では普通に話すし、帰りは一緒に帰ったりします。待ち合わせのために早めに出るとか、決まった時間に出なきゃというプレッシャーが、どうしても苦手です」
読者から募った内容を記事にしたのだろう。読んでいて動悸がした。いままで誰にも打ち明けたことのなかった心内と酷似していたから。同時に、同志の存在を知り、なんとなく嬉しくもあった。

出来ないことはないが、人に合わせるのは得意ではない。人の意見を尊重せず自分の意見を押し通すようなことはしないが、人からどう思われるか(礼儀を除いては)あまり気にせず自分の考えや感じた通りを表明する。
初対面の人から不思議ちゃん呼ばわりされたことが何度かあるので、ある人々にとっては自分が変わり者であるらしいことは知っている。
初対面のおぬしに何がわかるというのだ!などと言いながらテーブルをひっくり返し、昔の人気テレビドラマ寺内貫太郎一家の世界を再現するようなまねはもちろんせず、大抵の場合大人然とした振る舞いで聞き流す。それでも時々気まぐれに、相手が抱く不思議ちゃん疑惑を更に深めて差し上げるような言葉をひとつふたつばかり放ってみせては、相手のリアクションを観察し、自らのいたずら心を満たすのがひそかな愉しみだったりもするのだ。
「変わり者枠」とは、「普通の人々」と比較してはじめて発生したのであろうが、ならば普通の基準とは一体何なのか。
他者を変わり者呼ばわりする人自身は、アテクシってとっても普通の人間ですのよ、と自分のことを言ったり思ったりしているのは大前提なのだろう。何を基準に自分自身を普通枠に分類する経緯に至ったのか。
普通をグーグルしてみたら「いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま」とある。
それでは答えになっていない。なぜなら「他と特に異なる性質」の「他」とは、人間でいうなら、地球上全ての人間を指しているのか、一部の人間を指しているのか説明がない。「ありふれたもの」という、あやふやで無難な表現も説得力に欠ける。
あらためて注意を向けてみると、普通という表現が日常的に実に多く使われていることに気づく。「常識的」「当たり前」「可もなく不可もなく」という意味合い全てごちゃ混ぜで「普通」が使われる例が多く、普通の定義がますますボヤけている。
こないだ試したレストランはどうだった?まあね、普通に美味しかったよ。ごく普通の見た目。普通の考え方。普通はこうするでしょう。普通の生活。普通の人生。普通の幸せ。etc…
例えば、ある人々とっての「普通」の家庭環境とは、両親が揃っている家庭を指すのかもしれない。だが世界的にみても片親の家庭は珍しいことではない。
また、ある人々にとって「普通」の夫婦とは、男女のカップルを指すのかもしれない。だがアメリカのいくつかの州ではsame sex marriageが認められている。ニューヨークでは同性カップルや夫婦はちっとも珍しいことではない。
うちの猫のそれぞれの前足には6本と7本の指がある。彼にとってそのことは至って「普通」だ。
障害者/ハンディキャップという言葉はどうかと思う。障害者ではなく、少数派/マイノリティと呼ぶことを定着させるべきではないか。誰を対象とするかによって障害の有無は決まるのであって、障害を持たない人間(健常者と表現されることもある)だけを基準にしているのがそもそもおかしな話ではないか。なぜ障害を持つ人々が基準ではいけないのか。障害を持つ人々を「普通」としたなら、障害を持たない人々が奇形ということになる。
普通という表現が間違っているとは言わない。だが、普通枠に分類されている人や物や事をスタンダードとすることには断固として反旗を翻したい。普通ではなく、大多数という表現が最適ではないのか。
などという持論を展開する筆者は、やはりある人々にとっては「普通じゃない」のかもしれませんねぇ😼
すてきな週末を💝
<本日の1曲>