A Tribute to My Father

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年末大掃除プロジェクトを開始した。エリアごとに少しづつ気ままに片付ける。クロゼットを片付けている最中にふと出生届を手に取り、父の端正な文字で書かれた書類を眺めていたら、もうじき父の誕生日だということに気づく。久々に父のことを思い出した。今回は父について。

滅多に家にいなかった父についての記憶はとても少ない。

背が高く、照れ屋で、下戸。大きくて指が細長い綺麗な手をした、動物好きの、音楽と映画をこよなく愛した人。祖母の元で暮らすわたしと姉をよく連れ出してくれた父とのデートコースの大概は映画と食事。お寿司好きだった父は、馴染みの寿司屋にわたしたち姉妹もよく連れていってくれた。ワサビがツンと辛いときの対処法は父に教わった。小学校4年生になるまで小さなタイヤが後輪の両側についた補助付き自転車に乗るわたしを見兼ねて、自転車の乗り方を教えてくれたのも父だ。それから、ハモニカの吹き方も。

わたしの1歳の誕生日前に離婚した母は、わたしが18になるまで成長した私の顔をみたことがなかった。ある日彼女の家のソファでうたた寝するわたしの寝顔があまりにも父に似ていてドキッとしたと言っていた。わたしの目元は父と瓜二つで、笑ったときの顔の雰囲気もよく似ているらしい。

父は身だしなみに気を配る人だった。母方の叔母曰く、いつも素敵な装いで、綺麗に磨いた靴を履き、おしゃれだったらしい。よくわたしと姉に服や靴を買ってくれた。父がたまに家にいるときは、父が連れ帰った捨て犬だったムクとわたしと姉を聴衆に、複音ハモニカを重音奏法で恐ろしいほどの速さで吹いてくれたことをよく憶えている。ムクはいつもハモニカに合わせて歌ってた。

父が中学生のとき、馬に乗りたいからと家出同然で北海道まで行った話を祖母からきいた。当然学校をサボって行ったので、祖父がカンカンに怒り、父が大事にしていたフォークギターを庭へ放り出して壊してしまった。

多感な時期を在日朝鮮人として昔の日本で過ごしたことが、父の心にどんな影を落としたのか、いまとなっては知る由もない。小学校では一気に6年生まで飛び級し、習字を習ったこともないのに美しい文字を書き、手にした楽器は独学で習得してしまう天才肌。捨て犬をみると必ず連れ帰った心優しい青年が、国籍だけを理由に自分を否定する社会に傷つかないことなど有り得ないことは想像に難くない。

父の人生は父のものなので、否定も肯定もするつもりはない。でも、環境を理由に素行のよろしくない人生を送ることは、甘えだと思う。五体満足に生まれただけでありがたいことを念頭においたら、どんな環境に生まれ育ってもブレることなく愉しく生きられる。

父はよくモテた。母と付き合う前にも綺麗な女性と一緒に暮らしていたと母と祖母からきいた。父は再婚しなかった。わたしが18で渡米して以来会わず終いだった父がその後どんな人生を送ったのか知らない。最期まで素敵な女性(達)と愉しい人生だったならいいなと思う。

父が家に寄るのは、わたしと姉を連れ出しにくるときと、祖母からお金を無心してもらうときだった。そのうちにギャンブルにはまり、借金返済に追われ祖父が建てた横浜の中心地にあった家を売り払うことになる。挙句の果てには、瀬谷区という当時はなにもない僻地に残りのお金でなんとか買い求めたわたしの生家も抵当に入り、財産を食いつぶしてしまった放蕩息子。父の兄弟たちはわたしと姉の前でも構わずに父のことを悪く言い、私たちに辛くあたった。でも祖母が父のことを悪くいうのを一度も耳にしたことはなかった。

わたしのことを可愛がってくれていたハンメ(大叔母)がわたしの養子縁組をしたことがあった。病気がちだった祖母はまだ幼いわたしの行く末が心配だったのだろう、わたしを連れてその養子縁組先の家庭を訪ねた。裕福な在日朝鮮人の家庭で、いい匂いのする綺麗な女の人とわたしより少し歳上の男の子がいた。その女性は身体が弱く、もう子供を産むことができないがどうしても女の子が欲しかったらしい。大叔母は、わたしが100%朝鮮人で両班(昔の朝鮮の貴族階級)の末裔ということで養子縁組の話を持ちかけたらしいのだが、その女性はわたしを一目見て気に入ったらしく、わたしも優しいそのひとに好感をもった。話はトントン拍子に進んでいた。しかし父が首を縦にふらなかったので、それ以上話をすすめることが出来なかったと祖母が亡くなる前に話してくれた。そのとき貰われていったとしたら、何不自由のない生活が待っていたかもしれない。自分ではろくに面倒もみられないのだから、娘の将来を考えたら養子にだすべきという意見も一理あると思う。それでもやはり、父がわたしをまるで犬猫みたいに簡単によそへやらなかったことが嬉しく、それはいまも私の心を暖める。

わたしは小学校低学年から18歳までと、渡米後一時期日本に戻っていた1年間を横浜の片田舎の小さなアパートで暮らした。もっとも姉は私が中学3年のときには独立していたし、入退院を繰り返していた祖母が本格的に入院を余儀なくされ、高校一年から一人暮らしだったので2DKの小さな空間でも快適に暮らした。父の妹である叔母が東京から週一くらいの割合で通ってきては食料の買いだしをしてくれたし、カフェやレストランでバイトして自分のお小遣いは稼いでいたし、不自由や寂しさを感じた記憶はない。その頃から孤独を愉しみ、読書や音楽、映画やアートに傾倒していたので、夜遅くまで起きていても誰にも咎められることのない生活は至って快適であった。

父が怒ったり声を荒げたりするのを見たことも、叱られたことも一度もない。いつでも優しくて、カッコよくて、なんでも器用にこなす父が大好きだったし、父のもとに生まれてよかったと心から思う。不器用な生き方しかできなかった父。彼なりに精一杯私たち姉妹に愛情をかけてくれたこと。こうして大人になりふと思い出す父との思い出が楽しいものばかりなこと、それだけで親の役目を充分に果たしてくれた。そんな父への感謝の気持ちをここに。

<本日の一曲は、父によく似た雰囲気のショーケンが歌う姿を> 萩原健一 – ラストダンスは私に